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Claude Monet Special

自然の美をキャンバスに数多く残したクロード・モネ(Claude Monet)。モネの名画は、フランスだけでなく、日本、アメリカをはじめ全世界で多くの人に愛されています。開催された印象派展やモネ展の特設コーナーで、復恍画を展示させていただくと、他のどの画家の作品よりもご注文をいただいた作品はモネによるものでした。ここではモネの作品のエッセンスになるよう、画家モネにクローズアップして特集します。 クロード・モネ、画家の軌跡 クロード・モネは自然の中で輝く陽光の美しさや色彩を作品にとどめ、光の探求と表現に生涯を捧げた画家でした。モネは1840年にパリで生まれ、5歳の頃家族とともにフランス北西部の港町、ル・アーヴル(Le Havre)に移り住み少年時代を過ごしました。ここで先輩画家ウジェーヌ・ブーダン(Eugene Boudin)に才能を見出され、戸外で制作する素晴らしさを教わります。それが画家モネの運命を決定づけることになります。ル・アーヴルの日の入り空を描いたブーダンの作品目覚めたモネは、19歳でパリに出て、本格的に画家への道を歩み始めました。1862年シャルル・グレール(Charles Gleyre)のアトリエに入り、そこで後の印象派を代表する画家たちルノワール(Pierre-Auguste Renoir)やバジール((Jean Frederic Bazille)、シスレー(Alfred Sisley)らと出会います。当時の美術界は保守的で、唯一の作品発表の場とも言えるサロンでは、アトリエで丁寧に仕上げた写実的な歴史画や神話画などが模範的な芸術とされていました。こうした現状に不満を抱いたモネは、志を同じくする画家たちとグループを作り、大胆でありながら光に満ち溢れた作品を描き続けていきます。一方後に印象派の父と呼ばれたエデュアール・マネ(Edouard Manet)は、1863年サロンで発表した《草上の昼食》でスキャンダルを巻き起こしていました。モネはこの衝撃的な作品に感銘を受けて、1866年同じ題材で《草上の昼食》を描いたのでした。この作品は、画家モネ初期の代表作として知られ、当時交流のあったクールベも描かれています。   《草上の昼食》(左)、《庭の女たち》(右)モネは、後半生をジヴェルニーで安住しましたが、その前はよく旅をし、旅先の風景を描きました。最初の旅行は、1870年に半年間滞在したロンドンでした。モネはここで霧や粉塵によって視界の霞んだロンドンの風景に出会いました。また、モネはロンドンでイギリス風景画の巨匠ターナー((Joseph William Turner)らの作品からも大きく影響を受けます。  モネ《テームズ川と国会議事堂》(左)、ターナー《戦艦テメレール号》(右)そしてオランダを経由し1872年フランスに帰国後、パリから鉄道で15分のセーヌ河沿いの町アルジャントゥイユに移住し、1878年まで住みました。アルジャントゥイユは、セーヌでの川遊びなどのレジャーでにぎわう行楽地で、モネは170点以上の作品を制作しています。  《アルジャントゥイユの船着場》(左)、《アルジャントゥイユのレガッタ》(右)  《アルジャントゥイユの橋》(左)、《アルジャントゥイユ》(右)そして1873年、モネ32 歳の時。後に印象派の誕生を告げる記念すべき作品《印象、日の出》(東京都美術館モネ展にて21年ぶりの出品)は、少年時代の故郷ル・アーヴルの港で描かれました。早朝のル・アーヴルの港に昇る太陽と、朝もやの中でその光で染められる空と海。前景には小舟が浮かび、後景には大型の船が表され、船や人物は曖昧に描かれています。ただ、描かれた当初この作品はタイトルをもたず、モネは訊ねられて初めて「印象」と名付けて欲しいと答えたそうです。モネが描きたかったのは、港の空気や朝もやの中昇り始めた太陽の光が映された海といった、留めておくことが難しい印象そのものだったのでしょう。マルモッタン美術館所蔵、モネ《印象・日の出》この作品は、1874年に開かれた「画家、彫刻家、版画家等による共同出資会社」による第1回展覧会で展示されます。この展覧会に対して批評家ルイ・ルロワが『ル・シャリヴァリ』誌に発表した「印象派の展覧会」という批評をきっかけに、モネら新しい表現の画家たちは「印象派」と名付けられました。そしてこの展覧会は後に第1回印象派展と呼ばれるようになりました。それから長い年月をかけて、印象派の画家たちの作品は徐々に世間に認められるようになりました。そしてモネも、《積みわら》や《ルーアン大聖堂》の連作などを手掛け、画家としての名声を手にしていきます。《積みわら》の連作モネとジヴェルニー、代名詞《睡蓮》の連作モネは、ル・アーヴルやパリでの制作活動の後、列車の窓から見た景色の美しさに心奪われ、このパリ郊外ノルマンディー地方のジヴェルニーを安住の地として選びました。そう、モネの人生後半の作品で描かれた庭の所在地です。ジヴェルニー、モネが住んでいた当時の家と庭に立つ本人再現された現在のモネの庭園(水の庭)ジヴェルニー「モネの家と庭」は現在モネの多くのファンが訪れる観光地となっていますが、モネが1883年、43歳で住み始めた時は人口わずか300人の土地でした。モネはまるで庭師のように自ら徐々に造園していき、後に土地を買い足し、水を引いて池をつくりました。これが後の睡蓮の題材をもたらす「水の庭」と呼ばれる場所になります。彼は結局生涯の半分をこの庭とアトリエのある邸宅で過ごしたことになり、創作以外のほとんどの時間を庭仕事にあてていたといいます。庭自体がモネの作品といわれるように、自ら草花や木の種類を選んで庭に植えていき、それはまさに自分のキャンバスの上に絵を創作するようでした。創作のため長期に家を空ける時に家族に宛てた手紙の中でも、庭の手入れや庭師への指示に触れ、この庭への慈しみを手放すことがなかったそうです。モネの死後、放置された庭はいったん荒れ果てたものの、それを悼む多くの協力者により再現され、現在訪れることができます(4月~10月末の期間一般公開)。またジヴェルニーの家では、モネが1870年頃から収集した浮世絵のコレクションを見ることもできます。モネの浮世絵コレクションの一部モネは睡蓮を題材にした絵画を250点以上も描いています。ジヴェルニーで描き始めた当初は、池の周りの木や橋などの風景を捉えた作品を描いていたモネでしたが、次第に興味対象は移り変わり、水面と睡蓮を題材にした作品を手掛けるようになっていきました。幾度も幾度も睡蓮に向き合うモネ。同じモチーフの作品を描くことで、季節や時間とともに変化する光の効果を捉えようとしました。季節や天気、時間帯によって異なる太陽の光の変化により、移り変わる空の色や雲の動き、木々の存在、太陽の光、水面下の世界などを表現していきます。モネは、「すべては千変万化する、石でさえも」という言葉を残しています。モネ晩年、第一次世界大戦が終わり、休戦協定が1918年11月11日に締結された翌日、友人である当時のジョルジュ・クレマンソー首相に次のような手紙を送りました。「私は2作の壁画を完成させるところで、戦勝の日にサインを入れたいと思う。ついては、この作品を貴方を通じて国に寄贈してもらいたい。わずかではあるが、私にとって国全体の喜びを分かち合うためにできる唯一のことだ」モネはクレマンソー首相を通じて、大連作《睡蓮》の国家への寄贈を提案します。自らの人生の最後を託した、《睡蓮》の壁画で一室を飾るという壮大な計画。これが後のパリのオランジュリー美術館の2部屋を占める《睡蓮》の大壁画となり、長年に渡る改装工事を経て、現在自然光を入れるというモネ自身の意向が反映された形で鑑賞することができます。オランジュリー美術館、モネ《睡蓮》の一部モネは1926年86歳で死去するまで、ジヴェルニーの庭を描き続けました。70代後半に白内障を患ってからモネが描いた作品は、ときに激しいタッチと強烈な色彩で描かれていきました。モネ自身の最後の約10年間に描かれた《睡蓮》《日本の橋》《バラの小道》《藤》《バラの庭から見た家》などの作品は、いずれもジヴェルニーの庭で連作として制作されたものですが、それらの多くは何が描かれているかを判別するのが一見難しくなっていきます。こうした作品には白内障の影響もうかがえますが、手術後のモネは近距離では十分な視力があったともいわれ、自身の筆の運びは十分に認識できていたと考えられています。白内障の手術後も破棄されず、モネが生涯手放さずに残した作品の中には抽象的な表現のものも多いのです。これが後の抽象画への開眼ともいわれ、これらの連作は、モネが印象派の画家に留まることなく前衛であり続けたことを示しています。  日本の橋(左)、アガパンサス(右)  睡蓮(左)、睡蓮(右)  アイリス(左)、薔薇(右)  モネ晩年の作品 薔薇の庭園から見る画家の家(左)、ジヴェルニーの日本の橋(右)「・・・私はひたすら現象をぎりぎりのところまでとらえようと努力しています。というのは、現象が知られざる実在とふかく関わっているからです。対応する現象を追求していれば、実在、少なくとも私たちが知りうるかぎりの実在から離れてしまうことはないと思います。私がしてきたことは、ただ私の目の前にしめされる万象を見つめること、絵筆をとおして万象に立ち会うことだけなのです。」(モネが友人クレマンソーに宛てた手紙より)オランジュリー美術館、オルセー美術館、マルモッタン美術館、メトロポリタン美術館、ワシントン美術館、日本でも国立西洋美術館、大原美術館、ブリヂストン美術館、ポーラ美術館など。自然に真摯に向かい、目に見える現実世界をひたすら見つめ、移ろいゆくその様相を表現することに力を注いだクロード・モネの作品は、コレクターからの寄贈や公開を通し、世界の素晴らしい美術館に所蔵されており、多くの人々の心を魅了し続けています。 アルテ・キアラの 復恍画は、モネの作品の微妙な色の陰影や筆致を再現、モネの描いた世界を日常にもたらす複製画を超えた存在として、モネ作品の愛好家の方にご好評をいただいております。ぜひご覧になってみてください。《アルジャントゥイユのレガッタ》は東京・銀座のMMM(メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンド)でも実物をご覧の上お求めいただけます。 モネの作品一覧へ *現在、約45営業日数の制作期間(土日祝日、イタリア・クリスマス、年末年始、夏季休暇有り)を頂戴しております。

Mondrian special feature

垂直線と水平線で区分された平面が赤、青、黄など原色で彩られた作品で名高いピエト・モンドリアン(1872-1944)。ワシリー・カンディンスキーと並び、本格的な抽象絵画を描いた初期の画家とされ、20世紀芸術のうねりが起こっていた流れの中で活躍した先駆者の一人です。モンドリアンは絵画にとどまらず、建築、工業デザイン、タイポグラフィー、ファッション、グラフィックなど様々な分野で影響を及ぼしました。中には、ファッションデザイナーのイヴ・サンローランやミッフィーの作者ディック・ブルーナなどの名も連なります。 《赤・青・黄・灰の菱形のコンポジション》ワシントンナショナルギャラリーモンドリアンの画家としてのあゆみ ピエト・モンドリアン、54歳の頃モンドリアンは1872年、オランダのアーメルスフォールトに生まれました。アマチュア画家だった父親や伯父の手ほどきもあって小さい頃から絵に親しんできた彼は、20歳の時からアムステルダム国立美術アカデミーで伝統的な美術教育を受けました。最初は風景画や静物画などでゴッホやスーラを真似たり、自らの画風を確立すべく模索を続けました。転機が訪れたのは、1911年にアムステルダムで開催された39歳の時に見た展覧会。パリからやってきたキュビスムの作品に接したことがきっかけで、ピカソやブラックが活躍していたパリへ行くことを決心します。この時モンドリアンは40歳で、1912年から1914年までのパリ滞在期間に抽象画への志向を強めていきました。《赤いアマリリスと青の背景》1907、MOMA蔵キュビスムを学んで行くモンドリアンでしたが、やがて目指すものが違っていることに気づき、モンドリアン独自の世界を突き詰めていくことになります。この試行錯誤の時期から、モンドリアンの作品には「コンポジション」の題が付けられるようになりました。とはいえ生活のために植物、特に花の絵を描いては売っていたこともありました。第一次世界大戦中の1914年から18年にかけてオランダに帰省し、14年には水平線と垂直線を交差させて構成された「プラス・マイナス」と呼ばれる作風に行き着きました。極限まで幾何学化・単純化された海と埠頭の絵から、一切の事物の形態から離れた抽象絵画への移行が起こります。 《埠頭と海(コンポジションNo.10)》クレラー=ミュラー国立美術館蔵《コンポジションNo.10(埠頭と海)》でモンドリアンは、自然の情景を抽象的な線の世界に還元している。画面に規則的に配された線は、波のリズミカルな動きを思わせる。上に向かって網の目が詰まっているのがおぼろげに水平線を感じさせ、下方で強調される垂直線は海に屹立する突堤を連想させる。(『MONDRIAN』Taschen出版より)そしてモンドリアンは、ヨーロッパの絵画、建築、デザインに影響を与えたデ・スタイル派の創始を担います。雑誌『デ・スタイル(De Stijl))』1917年には画家・建築家のドゥースブルフらともに芸術雑誌『デ・スタイル(De Stijl))』を創刊します。彼ら抽象派芸術家たちは、新世界を築くために画家、彫刻家、建築家たちが協力して制作をすべきだと信じていました。宇宙の法則に従って、人々が良好なバランスの中で生きられる世界を彼らは理想とし、その哲学を表現するには単純で分かりやすい形が必要だと考えました。余分なものを一切排除し、色彩と線の純粋な関係をもとに、普遍的な原理の獲得を目指しました。モンドリアンは独自の美術理論を確立し、それを「ネオ・プラティシズム(新造形主義)」と呼びました。モンドリアンの直感と洞察に基づいた当時普遍的とされたビジョンは、規則正しい均衡の保たれた美を生み出しています。 《赤・青・黄のコンポジション》チューリッヒ美術館1919年には再びパリに戻り、1921年以降約20年近く、これを見れば一目でモンドリアンと分かる、明るい原色を使った新しいスタイルを確立させます。これらは「コンボジション」シリーズとも呼ばれ、最も知られた彼の代表作です。そして第二次世界大戦の戦火を逃れて1940年に移り住んだニューヨークで、モンドリアンの作品はさらに進化したものになっていきます。ニューヨークの都市のエネルギーやモダンアートからインスパイアされ、モンドリアンは新たな作品《ニューヨーク・シティ》やジャズ音楽をイメージした《ブロードウェイ・ブギウギ》などを創作しました。ブギウギは当時流行したジャズ音楽で、モンドリアンは好んでジャズを聴いていたといいます。作品はこれまでの基本原理は変わらないものの、黒は使用しなくなり、より明るい線でリズミカルな構成になっていきました。《ブロードウェイ・ブギウギ》、MOMA1942年には70歳で初の個展をヴァレンタイン・デュウデンシング画廊で開催。それから2年後、肺炎にかかり入院。その数日後、未完の《ビクトリー・ブギウギ》を遺して72歳でこの世を去ります。絵画以外への影響 モンドリアンは生前も没後も絵画にとどまらず、建築やデザイナー/クリエイター、現代のデザインに至っても実に様々なジャンルで多大な影響を与えます。家具職人だったヘーリット・リートフェルトは先の芸術運動デ・ステイルに参加し、モンドリアンに感化された一人でした。現代でも人気のあるリートフェルト作の『レッド&ブルーチェア』はまるで三次元のモンドリアン絵画のようで、周囲の空間へ無限の広がりを予感させる椅子です。この椅子が好評を博し、同じ原理を使って住宅を建てようという話まで持ち上がり、これが2000年に世界遺産に登録されたリートフェルトが手掛けた『シュローダー邸』です。モンドリアンルックとイヴ・サンローランファッション界には「モンドリアンルック」というファッション用語があります。モンドリアンが活動の拠点にしていたパリで、1965年に美術コレクターでもあったイヴ・サンローランが発表したワンピースが始まりです。モンドリアンの作品から着想を得てデザインされたこの服は、白地のシンプルなワンピースが黒の水平線と垂直線で分割され、そこに赤・黄色・青の三原色が大胆に配されたものがそれです。「モンドリアンルック」は、現代アートをファッションに取り入れた初の試みとして世界的な注目を集めました。ブルーボトルコーヒーのモンドリアンケーキ最近コーヒー界のAppleとも呼ばれ、清澄白河に東京の一号店ができ行列でも話題になった「Blue Bottle Coffee(ブルーボトルコーヒー)」。創業者ジェームズ・フリーマンさんの奥さんでありパティシエのケイトリン・フリーマン(Caitlin Freeman)さんは、サンフランシスコ現代美術館(SFMOMA)に併設する同カフェで企画展に合わせてインスパイアされて作ったモンドリアンケーキを置いたところブレークし、これを表紙に出版した『MODERN ART DESSERTS』も評判です。このレシピを読めば、誰でもモンドリアンケーキが作れるのでしょう。 モンドリアンのある空間。モダンなオフィス、リビングにも映える作品となり、部屋全体がスタイリッシュに見えることでしょう。 モンドリアン作品一覧へ 上記掲載されている作品以外のモンドリアンの作品も再現できる場合がございますので、ぜひお気軽にお問い合わせください。 *現在、約45営業日数の制作期間(土日祝日、イタリア・クリスマス、年末年始、夏季休暇有り)を頂戴しております。

Henri Matisse Special

ダイナミックなフォルムと大胆で鮮やかな色彩で知られる20世紀を代表するフランスの芸術家、アンリ・マティス。「色彩の魔術師」と評されるマティスの作品は、ただそこにあるだけで空間がパッと明るくなることを可能にさせてくれます。そんなマティスの作品をアルテキアラで再現することが、ようやく最近許可されるようになりました。ここではアンリ・マティスの芸術について、そのおおらかな魅力について触れていきます。 マティスの生い立ちと画家としての成り立ち マティスは1869年、フランス北部にあるル・カトー・カンブレジ(Le Cateau-Cambresis)で生まれました。実家は穀物などを扱う商人の家で、はじめは父親の意向で法律家を志し、パリ大学法学部を卒業した後は法律事務所で働き始めますが、書記の仕事に興味を持てずにいました。そんな折り、21歳の時に盲腸を患いマティスは療養生活を余儀なくされます。時間を持て余していた療養中、母親から贈られた油彩道具がきっかけとなり、マティスはそこで絵を描く楽しさを知るのです。すっかり絵を描くことに夢中になったマティスは、23歳の時に父親の反対を押し切り、法律事務所を辞めて、アカデミー・ジュリアンを経て、国立美術学校の教師ギュスターヴ・モローから個人指導を受けるようになりました。マティスは同じくモローの弟子だったジョルジュ・ルオーとも出会います。さらにアルベール・マルケやポール・シニャック、モーリス・ド・ヴラマンクやアンドレ・ドランと知り合い、互いに刺激し合いながら己の画風を追い求めていくことになります。Ecole Nationale Superieure des Beaux-Arts de Paris(パリの国立美術学校)色彩豊かに変化するマティスの絵時代は印象派の画家たちが登場してから、彼らがリードした現代美術の展開は後期印象派へ移り変わろうとしていきます。1896年から1905年頃まで、初期のマティスは様々な試行錯誤を重ね、写実的なものから、印象派、セザンヌ、新印象派などの成果を吸収しながら自らの道を模索していました。1897年と1898年には色彩論理を教えてくれた師と語ったジョン・ピーター・ラッセルのもとでゴッホらとも出逢い、後期印象派の影響を受け自由な色彩による絵画表現を追求するようにもなったといわれています。マティスは1904年に南仏のリゾート地、サン=トロペに滞在しており、そこで新印象派と呼ばれたシニャックやクロスと定期的に会っていました。しかしマティスの作品においては、色彩を分割した小さな筆致よりも、純色を用いた色面が重要を増していき、ついにはスペインとの国境にほど近いCollioure(コリウール)で、のちにフォーヴィスムと呼ばれることとなる最初の風景画を制作するのです。《豪奢、静寂、逸楽》1904コリウールで描かれた 《風景画》1905フォービスム(野獣派)の誕生1905年パリのグラン・パレで開幕した第3回サロン・ドートンヌは、美術史上20世紀美術の出発点ともいわれました。マティスはここで、ヴラマンクやアンドレ・ドランらと参加し、《帽子の女》《開いた窓・コリウール》《緑のすじのあるマティス夫人》などの作品を発表します。目に映る色彩をそのまま描くのではなく、画家の内側にある色で自由に表現するこれまでにないスタイル。彼らの作品は、奔放とも見て取れる色彩と筆使いから、批評家ジュフロワに「野獣(フォーヴ、fauve)の檻の中にいるようだ」と揶揄され、それから「フォーヴィスム」と命名されました。もっとも、マティスはフォーヴと呼ばれることを好まなかったといいます。マティスは次第に、豊かな色彩の中でも安定した作品を好んで描いていきます。南仏、作風の進化、そしてマティスの格言ニース、マティス美術館マティスはもともと旅を好む人で、パリを拠点にしていながらも、輝く地中海の光に出会いに度々南仏のニースを訪れていました。1917年、マティス48歳の頃、本格的にニースに住居を移すと、太陽光がさんさんと降注ぐ環境で、特徴的な画風へと進化していきます。マティスは高級住宅街シミエ地区のアパルトマン、ホテル・レジーナにアトリエ兼住宅を構え、ここで亡くなるまで創作の魂を開かせていきました。現在はそこから程近く、オリーブの樹が生い茂る、ローマ遺跡に囲まれたシミエ公園に建っていた場所がマティス美術館(http://www.musee-matisse-nice.org/)となり、約1,000点余りの作品や資料から、南仏でマティスが描いた作品を鑑賞できるだけでなく、マティスの創造の源や作風の変化にも触れられる場所となっています。  《マグノリアのある静物画》1941《黄色と青のインテリア》1946挿絵本『ジャズ』シリーズ晩年72歳の時に十二指腸ガンを患い車いすの生活を強いられることになっても、マティスが芸術にかける意欲は衰えず、着色した紙をハサミで切り抜く「切り絵」を始め、『ジャズ』シリーズや装飾性に満ちた様々な作品を制作していきます。ロザリオ礼拝堂また、初めての宗教的制作として、南仏ヴァンスにあるロザリオ礼拝堂の内装や聖職者の祭服デザイン、線だけで描いた聖母子像のタイル画、切り絵をモチーフにしたステンドグラスなどを手掛けました。明るく清澄なその空間は、まさにマティスの全生涯の総仕上げと称するに相応しい完成度となっています。プーシキン美術館 《金魚》マティスの作風は、実写的なものから抽象画に近いものまで幅広く、開放的な構図、独特の色彩とタッチにより、昔も今も多くの人を魅了してやみません。フランスならではのエスプリと温和な精神、明晰なデッサン、華やかな色彩をとするマティスの芸術は、フランス的なおおらかな「生きる喜び」の芸術をうまくまとめたものといえます。晴れやかな装飾性と明るい精神性の融合したマティス芸術の本質は、マティスが自ら発した次の言葉に集約されているかのようです。ニューヨーク、MOMA 《ダンス》(1909)の前でダンスを再現するこども達“There are always flowers for those who want to see them. - Henri Matisse”「 見たいと願う、そんな人たちのために咲く花が、必ずある ―アンリ・マティス 」“What I dream of is an art of balance, of purity and serenity, devoid of troubling or depressing subject matter, an art which could be for...

Renoir special feature

19世紀印象派の中で唯一人物表現に力を注いだ画家として知られる、ルノワール。多くの肖像画、特に女性の曲線の優美さと子どもたちのいきいきとした表情を描き残し、今もなお私達の目に優しく語りかけてくれます。そのやわらかなタッチから、画家の溢れるばかりの愛情が伝わってくるかのよう・・・。こちらでは、ルノワールについて少しでもご紹介できれば幸いです。ルノワール、画家のあゆみ ピエール・オーギュスト・ルノワールは、1841年、リモージュ焼きで有名なフランスのリモージュで仕立て屋の家に生まれました。3歳の時、一家でパリに移住し、ルーヴル美術館に近い都心に移り住みました。幼い頃のルノワールはその美声から、作曲家のシャルル・グノーからオペラ座の合唱団に入るよう誘いがあったというエピソードもありますが、人前に出ることが嫌いだった上に、夢だった磁器リモージュの仕事場で徒弟に雇うとの申し出が来て、絵付け職人の道に進みます。5年間の修業でルノワールは次第に才能を開かせ、その頃からルーヴル美術館に出掛けるのが習慣だったといいます。産業革命によって機械化が進み、ルノワールは絵付けの経験を活かして画家を目指します。1860年、模倣画家として認められ、ルーヴル美術館でルーベンス、ブーシェ、フラゴナールなど宮廷絵画の研究と模写を行います。1861年、当時最も人気の高かったシャルル・グレールのアトリエに入門し、翌年の1862年にはエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学します。グレールのアトリエでは、後に印象派の代表となるモネ、シスレー、バジールと出会います。キャンバスの前に座っているのは印象派の父、マネ。その後ろで帽子をかぶりマネの絵をじっと見つめている青年がルノワール。その右隣は作家のゾラ。その横でこちらに視線を向けているのはモネ。そしてその隣に横顔を見せて立っている長身の男性がバジール。ルノワールは1864年のサロン・ド・パリに出品し、初入選。この頃の作品は、アングル、ルーベンス、ドラクロワなど様々な画家の影響が指摘されています。1873年、後に「印象派」と呼ばれるグループの画家たちが「芸術家、画家、彫刻家、版画家その他による匿名協会」を結成し、ルノワールも参加。1874年、パリ、キャピュシーヌ大通りにある写真家ナダールのアトリエでこのグループの第1回展を開催。これが後「第1回印象派展」と呼ばれるもので、ルノワールは《桟敷席》など7点を出品しました。1876年の第2回印象派展には《ぶらんこ》、《陽光を浴びる裸婦》など15点を出品した。後者は今日ではルノワールの代表作として知られるものですが、当時は酷評された。1877年の第3回印象派展には、前年に完成した大作《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》を含む22点を出品しました。 《ぶらんこ》 《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》1878年には、サロン・ド・パリに出品を再開し、翌年に出品した《シャルパンティエ夫人と子どもたち》は絶賛を浴びました。1881年には大作《舟遊びの人々の昼食》を完成。この作品の左端に描かれる、帽子をかぶり犬を抱く女性は後にルノワール夫人となるアリーヌ・シャリゴで、《田舎のダンス》などの作品に度々モデルとして登場します。 《舟遊びの人々の昼食》 《シャルパンティエ夫と子どもたち》 《ピアノに寄る少女たち》少しずつルノワールの描く印象派の絵画が広まっていき、この頃は特に女性らしい曲線が魅力の女性をテーマにした作品は数多く残っています。1892年には、パリのリュクサンブール美術館に収蔵するために、国から依頼を受けて《「ピアノに寄る少女たち》を描きます。ルノワールにとって、フランス政府が初めて買い上げた作品となり、印象派の巨匠の地位を築いていくことになります。 ルノワールの家美術館 Maison Renoir 晩年に描いた《アネモネ》の一つ晩年のルノワールは、関節リュウマチに悩まされ、医師に勧められ友人の紹介で南仏のニースに程近い、温暖なカーニュ・シュル・メールに家族で移り住みました。1907年には何度も描いたことのあるコレットの丘の土地を購入し、オリーブの茂る敷地内に自邸を建設します。ルノワールは、車椅子生活を余儀なくされるも、痛みに耐えながらも最後まで精力的に作品を描き続けました。1919年で亡くなったその日もアネモネの絵を描いていたといいます。「この絵で、何かわかり始めたような気がするよ。」という最後の言葉を遺して。カーニュ=シュル=メール、ルノワールの家美術館そのカーニュ・シュル・メールの邸宅は、今は美術館として一般に開放され、現在は晩年のルノワールがどのような家で暮らしていたのか、うかがい知ることができる場所となっています。 ルノワールの子孫 ルノワールの絵によくモデルとして登場いた次男のジャンは、後にフランスを代表する映画監督ジャン・ルノワール(1894–1979)で知られることになります。ジャンは、『大いなる幻影』(1937)や『ゲームの規則』(1939)、『フレンチ・カンカン』(1954)など、人間の持つ多様性への深い眼差しに支えられたその作品は高い評価を獲得し、ヌーヴェル・ヴァーグの旗手フランソワ・トリュフォーやジャン=リュック・ゴダールなど後世の映画監督たちに多大な影響を与えました。《ピクニック》では、父オーギュストの絵画的世界が現出したかのような、印象派の絵画を越える美しさにあふれた映画として高い評価を受けています。 東京・渋谷 Bunkamura ザ・ミュージアム < ルノワール+ルノワール展画家オーギュスト・ルノワールと監督ジャン・ルノワール。二人の巨匠の作品を交互に紹介し、絵画と映像の魅力に迫った「ルノワール+ルノワール展」は、パリと東京Bunkamuraで大きく反響を呼びました。また、近年の映画『ルノワール 陽だまりの裸婦』で晩年のルノワールと監督になる前のジャンを描いた父子のドラマは、ルノワールの曾孫で、写真家としても活躍するジャック・ルノワールが執筆した画家ルノワールの伝記小説が原作となっています。そうしてルノワールの表現する才能は3代に渡り受け継がれていくのでした。 ルノワールの作品は、空間に柔らかな印象を与えてくれ、優しさと幸せをもたらしてくれることでしょう。 ルノワール作品一覧へ 上記で表示される以外のルノワールの作品もお作りすることできる場合がございますので、ぜひお気軽にお問い合わせください。 *現在、約45営業日数の制作期間(土日祝日、イタリア・クリスマス、年末年始、夏季休暇有り)を頂戴しております。

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ホテル・レストランでの空間演出に ホテルというお客様の心地よさを目指される空間に、アルテ・キアラの復恍画は見事なまでに調和し、よりいっそうの壮麗と高級感をもたらします。エントランス・受付・ロビー・レストランダイニング・廊下・客室など、その場のシーンに合わせた色彩の美しい絵画や、夢心地にさせてくれる絵画など、見たことのない作品から目になじむ作品、そして著名な作品まで。オーダーメイドならではの豊富なバリエーションからお選びいただけます。 復恍画は、優雅な雰囲気の中で、お客様が美と知に触れ、会話も弾む喜びをもたらしてくれることでしょう。洋室にはもちろん、和室にも調和する作品もございます。 サロン・病院・クリニックでの治癒効果に 「こわい」「痛い」というイメージで、病院や歯科、各種クリニックに行きたくないという人は少なくありません。医療機器に対し無機質で冷たいイメージを持たれる方が大半ではないでしょうか。不安な気持ちの患者様が、リラックスできる院内の雰囲気はとても重要になってきています。絵画を飾ることによって、病院に対する従来のイメージを払拭し、あたたかく優しい病院の印象を与え、ヒーリング効果を図ることができます。病にかかっている患者様だからこそ、早く治すには免疫力を高める心のアプローチも大切と言われています。 手術後の患者に対して、何もない部屋と壁に絵画を置いた部屋での比較をしたところ、絵画のある部屋の患者の方が、薬の量が少なくてすんだという欧米のデータがあります。何もない部屋の患者は自分の痛みにばかり集中してしまう傾向がありますが、絵画を眺めるだけで気持ちが落ち着き、痛みが軽減されたり前向きな気持ちになる作用があるからでしょう。この場合は奇をてらう現代アートよりも、心に寄り添ってくれるような近代以前の絵画が推奨されます。 絵画のある空間だからこそ、患者様の緊張感がやわらぎ、不安や苦痛が忘れられリラックスして治療に望めるでしょう。内装によってどのような絵画が適しているか、当社では無料で空間演出のお手伝いをさせていただきます。 オフィス、マンションのイメージアップに 会社のお客様を、美しいオフィスのエントランス、応接室や会議室でお迎えすることは大切なおもてなしのひとつです。復恍画は1点そこにあるだけで、空間が美しく生まれ変わります。お客様からの印象も良くし、コミュニケーションもスムーズになることでしょう。絵画は、お客様だけでなく、実はオフィスで長い時間を過ごす社員様にも好影響をもたらします。殺風景な環境よりも、復恍画のあるオフィス環境は、視覚的な刺激から精神・潜在意識にまで作用し、社員一人一人の感性を引き出し、働くモチベーション、創造性、美意識の向上にも役立ちます。オフィスで飾る絵画は、お客様が持つイメージアップと社員様の感性・意識向上にも繋がるという両面のメリットがあります。  ・・・アルテ・キアラの復恍画は、著作権法の遵守だけでなく、すべての作品において原画の所蔵美術館の許可を得た上で発行されます。売上の一部は美術館へ還元され、微力ながら美術館運営に役立てられます。企業様にもCSRとして安心して展示いただけるものです・・・ ご自宅・別荘でのくつろぎの空間に 生活空間に“絵を飾る”ことは、生活の雰囲気を変えるだけでなく、心にゆとりをもたらし優雅にさせてくれるものです。展覧会で見た絵画や海外の美術館で目の前にした心に残る絵画。  「 大好きな作品を日常に飾りたい 」 「 名作絵画の良さを身近に感じていたい 」「 インテリアを洗練させたい 」「 毎日の生活に彩りをもたらしたい 」 さまざまなご希望に合わせて、オーダーすることができます。オリジナルに限りなく忠実に、作品を目の前にする時の感動を甦らせます。 模写でもなく、プリントでもない、これまでになかった高い品質と魂を持つ復恍画。感動をそのままに、ご希望通りのお部屋の雰囲気づくりを瞬時にして叶えてくれます。

The charm of the reconstructed painting "ArteChiara"

誰しも一度は、美術館、あるいは展覧会で絵画を目の前にし、美しいと思ったり、心動かされたり、幸せな気持ちになったりしたことはないでしょうか。 記念として絵はがきなどを購入することもよいでしょう。あるいは絵画として普段から目に触れていたいと考え、複製画を飾るという選択肢もあります。 その中でも、これまでの複製画とは一線を画し、心動かされる絵画を見た時の感覚を呼び起こしてくれる再現性を持っているのが「復恍画」です。 感動を呼び起こし、日常にとどめる 手に入れられる価格で油彩画と同様に末永くに楽しめます圧倒的な迫力があります。 美術館所蔵の絵画には、長年に渡り評価を受け、人を惹きつける力があります。しかし本物の名画は、多くの場合、遠く離れた海外の美術館や期間が限られた国内の展覧会で、あるいはごく少数のコレクター宅でのみ許された鑑賞に限られていました。 これまで版画や複製画、ポスターなどによる複製は出回っていましたが、原画とは性質が異なり、美術愛好家を満足させる品質とはいいにくい状況でした。そうした「複製状況」に疑問を持ち、フィレンツェのウフィツィ美術館でデジタルアーカイブに従事していた責任者により、考案されたのが「復恍画」です。 復恍画にたずさわる技術者や職人のモットーは、「If not original, then this is the one (もし原画でなければ、これこそである)」。 イタリアのクラフトマンシップが徹底し、原画が持つ魂と感動をよみがえらせることに力を注ぎます。好きな絵画を目に触れる喜びが彩りながら、それを所有できる満足感も、また同時に絵画を所蔵する美術館の公認のもと還元されていることから、所有することで美術館を応援している充実感も得られます。 実際の名画と呼ばれる西洋絵画は、その希少性により購入できない場合やしようとしても相場が数十億円から何百億円であったり、また日本の通常の壁には大きすぎることも多いのが現状です。復恍画の場合は、その1万分の一から1000分の一という求めようと思えば手が届く価格で、自分の好きな作品をサイズも飾りたい壁に合わせてカスタムオーダーで購入することが可能です。 現代では同じ作品を描こうとしても描けない歴史に名を残した天才画家たちの名画を、その魅力を余すところなくご自宅やオフィスなどで楽しめるのは、復恍画の大きな魅力といえるでしょう。 「迫力」、「極み」、「重み」。存在感を感じられるということ 「存在感」、「極み」、「重み」を感じられます原画に忠実であること―。その徹底ぶりは、画材選びと土台づくりからはじまります。環境に優しい原料を厳選し、原画がキャンバスであればキャンバスで、原画が木板の場合は木板で起します。1点ずつ職人が時間を掛けて土台をつくり、その手間を省かない工程のひとつひとつが機械製造の生産と一線を画す仕上がりをもたらします。そうして生み出された復恍画は、大量生産での複製画などとは別格のこれまでにない品質と存在を誇ります。原画に忠実に接し生まれた復恍画には、画家の創造的な特質、絵画の細部、本格的な額の手彫りの部分に至るまで、感動的要素が備わります。本場イタリアで、歴史と伝統の重み、職人たちの熱意と技術が、芸術作品として込められ、複製画ではなく復恍画と呼ばれる背景です。 また、 アルテ・キアラの高い品質にふさわしい額は、最高のハンドメイドフレームと考えました。トスカーナのひまわり畑に所在する額装工房では、妥協を許さない額装職人が、ひとつひとつ丁寧に創り上げています。この工房は高品質の額縁を創ることで知られ、アンティークのディーラーや個人収集家だけでなく、イタリア、ドイツ、アメリカの美術館へも原画用の額装を供給しています。典型的なイタリアのファミリー経営によって営まれており、代々受け継がれてきたクラフトマンシップの確かな手仕事で、アルテ・キアラの額装を仕上げています。 アルテ・キアラでは、表面の風合いも最大限味わっていただくために、あえて表面を覆わず、代わりに表面に直接の見えない紫外線保護を施しています(ご希望によってはガラスやアクリルをお付けします)。表面に近づくことの許されない美術館所蔵の原画でも、復恍画では、表面を指で触れる鑑賞もお楽しみいただけます。 アルテ・キアラの復恍画をお求めいただけるのは、こちらのオンラインショップと弊社の復恍画を扱っていただいているショップ様のみです。現在、大阪の「あべのハルカスミュージアムショップ」、東京・上野の東京都美術館「THE MUSEM SHOP」、東京・銀座の「MMM、メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンド」、シンガポールの高級モール内画廊「TOKYO GALLERY」、通販「朝日新聞SHOP」でご注文いただけます。その他ご希望の方もお気軽にお問い合わせください。 お問い合わせはこちら