アンリ・マティス特集 Henri Matisse
ダイナミックなフォルムと大胆で鮮やかな色彩で知られる20世紀を代表するフランスの芸術家、アンリ・マティス。「色彩の魔術師」と評されるマティスの作品は、ただそこにあるだけで空間がパッと明るくなることを可能にさせてくれます。そんなマティスの作品をアルテキアラで再現することが、ようやく最近許可されるようになりました。ここではアンリ・マティスの芸術について、そのおおらかな魅力について触れていきます。 マティスの生い立ちと画家としての成り立ち マティスは1869年、フランス北部にあるル・カトー・カンブレジ(Le Cateau-Cambresis)で生まれました。実家は穀物などを扱う商人の家で、はじめは父親の意向で法律家を志し、パリ大学法学部を卒業した後は法律事務所で働き始めますが、書記の仕事に興味を持てずにいました。そんな折り、21歳の時に盲腸を患いマティスは療養生活を余儀なくされます。時間を持て余していた療養中、母親から贈られた油彩道具がきっかけとなり、マティスはそこで絵を描く楽しさを知るのです。すっかり絵を描くことに夢中になったマティスは、23歳の時に父親の反対を押し切り、法律事務所を辞めて、アカデミー・ジュリアンを経て、国立美術学校の教師ギュスターヴ・モローから個人指導を受けるようになりました。マティスは同じくモローの弟子だったジョルジュ・ルオーとも出会います。さらにアルベール・マルケやポール・シニャック、モーリス・ド・ヴラマンクやアンドレ・ドランと知り合い、互いに刺激し合いながら己の画風を追い求めていくことになります。Ecole Nationale Superieure des Beaux-Arts de Paris(パリの国立美術学校)色彩豊かに変化するマティスの絵時代は印象派の画家たちが登場してから、彼らがリードした現代美術の展開は後期印象派へ移り変わろうとしていきます。1896年から1905年頃まで、初期のマティスは様々な試行錯誤を重ね、写実的なものから、印象派、セザンヌ、新印象派などの成果を吸収しながら自らの道を模索していました。1897年と1898年には色彩論理を教えてくれた師と語ったジョン・ピーター・ラッセルのもとでゴッホらとも出逢い、後期印象派の影響を受け自由な色彩による絵画表現を追求するようにもなったといわれています。マティスは1904年に南仏のリゾート地、サン=トロペに滞在しており、そこで新印象派と呼ばれたシニャックやクロスと定期的に会っていました。しかしマティスの作品においては、色彩を分割した小さな筆致よりも、純色を用いた色面が重要を増していき、ついにはスペインとの国境にほど近いCollioure(コリウール)で、のちにフォーヴィスムと呼ばれることとなる最初の風景画を制作するのです。《豪奢、静寂、逸楽》1904コリウールで描かれた 《風景画》1905フォービスム(野獣派)の誕生1905年パリのグラン・パレで開幕した第3回サロン・ドートンヌは、美術史上20世紀美術の出発点ともいわれました。マティスはここで、ヴラマンクやアンドレ・ドランらと参加し、《帽子の女》《開いた窓・コリウール》《緑のすじのあるマティス夫人》などの作品を発表します。目に映る色彩をそのまま描くのではなく、画家の内側にある色で自由に表現するこれまでにないスタイル。彼らの作品は、奔放とも見て取れる色彩と筆使いから、批評家ジュフロワに「野獣(フォーヴ、fauve)の檻の中にいるようだ」と揶揄され、それから「フォーヴィスム」と命名されました。もっとも、マティスはフォーヴと呼ばれることを好まなかったといいます。マティスは次第に、豊かな色彩の中でも安定した作品を好んで描いていきます。南仏、作風の進化、そしてマティスの格言ニース、マティス美術館マティスはもともと旅を好む人で、パリを拠点にしていながらも、輝く地中海の光に出会いに度々南仏のニースを訪れていました。1917年、マティス48歳の頃、本格的にニースに住居を移すと、太陽光がさんさんと降注ぐ環境で、特徴的な画風へと進化していきます。マティスは高級住宅街シミエ地区のアパルトマン、ホテル・レジーナにアトリエ兼住宅を構え、ここで亡くなるまで創作の魂を開かせていきました。現在はそこから程近く、オリーブの樹が生い茂る、ローマ遺跡に囲まれたシミエ公園に建っていた場所がマティス美術館(http://www.musee-matisse-nice.org/)となり、約1,000点余りの作品や資料から、南仏でマティスが描いた作品を鑑賞できるだけでなく、マティスの創造の源や作風の変化にも触れられる場所となっています。 《マグノリアのある静物画》1941《黄色と青のインテリア》1946挿絵本『ジャズ』シリーズ晩年72歳の時に十二指腸ガンを患い車いすの生活を強いられることになっても、マティスが芸術にかける意欲は衰えず、着色した紙をハサミで切り抜く「切り絵」を始め、『ジャズ』シリーズや装飾性に満ちた様々な作品を制作していきます。ロザリオ礼拝堂また、初めての宗教的制作として、南仏ヴァンスにあるロザリオ礼拝堂の内装や聖職者の祭服デザイン、線だけで描いた聖母子像のタイル画、切り絵をモチーフにしたステンドグラスなどを手掛けました。明るく清澄なその空間は、まさにマティスの全生涯の総仕上げと称するに相応しい完成度となっています。プーシキン美術館 《金魚》マティスの作風は、実写的なものから抽象画に近いものまで幅広く、開放的な構図、独特の色彩とタッチにより、昔も今も多くの人を魅了してやみません。フランスならではのエスプリと温和な精神、明晰なデッサン、華やかな色彩をとするマティスの芸術は、フランス的なおおらかな「生きる喜び」の芸術をうまくまとめたものといえます。晴れやかな装飾性と明るい精神性の融合したマティス芸術の本質は、マティスが自ら発した次の言葉に集約されているかのようです。ニューヨーク、MOMA 《ダンス》(1909)の前でダンスを再現するこども達“There are always flowers for those who want to see them. - Henri Matisse”「 見たいと願う、そんな人たちのために咲く花が、必ずある ―アンリ・マティス 」“What I dream of is an art of balance, of purity and serenity, devoid of troubling or depressing subject matter, an art which could be for...